馬籠

ここで培われてきた文化を掘り下げ、
受け継がれてきた歴史を感じるWEBアーカイブ。

馬籠MAGOME 人と、文化が、行き交うまち。

Contents No.4 ふるさとの文化

ふるさと馬籠の土地柄、情景を構成するものは、目に見える宿場町や自然風景だけではないかも知れません。

例えば、土地の人の間で受け継がれてきた無形の文化には、ふるさとの情緒を醸し出すものが必ずある事でしょう。

このコンテンツでは、そんなふるさとの文化を取り上げます。

まずは「民話」。

土地に伝わる民話には、その土地の過去と現代をつないでくれる様なものがいくつかあります。

また、土地の先人たちがそのような情報を整理して、私たちに残してくれていました。

1992年に刊行された山口村史を参考に、ご紹介します。

1 連理の松(一)

天地が開かれて以来、第四二代文武天皇の大宝二年、天皇の命令によって新しくこの木曾を通る道が開通し、人も馬もみんなこの道を通るようになり賑やかな街道となりました。それから何百年も過ぎたころの話です。後奈良天皇の御代、時の将軍は足利義晴の世となった大永七年のこと。この村に鈴木某という男が住んでいました。村はずれに一つの小さな祠(ほこら)があって、何という神様が祭られているのか、詳しいことは誰も知りませんでしたが、信仰心の篤いこの男は熱心にお参りすることを欠かしませんでした。
ある夜のこと、衣官装束に身を正した神々しい老人が男の夢枕に現れます。
「私は、おまえの家の守り神である。日ごろから神を尊敬し、信心の志しが篤いことは誠に感心である。よって末長く子孫が栄えるよう、おまえの家を護ってやろう。私の言うことを疑ってはならない。その証拠としてあの祠の横に一本の木が生えてくるであろう」。
やがて目が醒めた男は、「不思議な夢をみたものだ。これは有り難い神のお告げにちがいない」と更に信心に励むようになりました。
その年も暮れて、世は亨禄と改まりました。この年の春三月も半ばを過ぎた頃、夢のお告げのとおり、祠の横に雌雄二つの幹のある一本の松が生えてきました。
男は「これはまさしくご神託の木であり、神様からの下され物に相違ない」・・・と一層信仰心を深めるとともに、この松を明け暮れとなく大切に育てていったのです。
不思議なことにその木の育ちの早い事。ぐんぐん伸びて一〇年も経つと二本の幹は互いに天空でからみ合い、自然に一つの幹にとけこむような「連理」の姿になっていきます。
これを聞いた世間の人々は「神様のお告げによって生えてきた世にもまれな不思議な木であり、めでたい松である」と評判し、やがて人々はこの男の家を「連理の松」と呼ぶようになりました。また松は子孫繁栄の護り松としてあがめられるようになります。
しかし、惜しいことに先年の嵐の時に傷み枯れてしまい、今はその古株だけしか残っていません。ですが、木は枯れても神様のご威光はすこしも変わらず、今も尚この家は益々栄えています。このことは神様の御恵みが永遠に変わらぬものであることの現れなのです。

2 連理の松(二)

荒町の横手に「連理の松」の跡があり、江戸時代にここでかたき討ちをめざした人妻があわれ返り討にあったという話。
周防(山口県)岩国の藩士で国次惣左衛門という小太刀の指南役がいました。
ある日同藩の槍術の指南役である陶大之進と武芸のことで言い争いになり、やがて殿様の前で小太刀と槍の試合をすることになります。試合の結果は惣左衛門の勝ちとなり、彼は殿様からお褒めの言葉をいただくなどして面目をほどこしました。しかし、相手の大之進は試合に負けたことを恨みに思い、弟の大助と図って惣左衛門の帰宅途中を待ち伏せて闇討ちにしてしまうのです。
殺された惣左衛門の妻のお萬は、一子惣之助娘美津の二人を連れて敵討ちにでます。
しかし、荒町にさしかかったところでお萬は持病の発作に見舞われ苦しみだしたので、娘の美津は馬籠まで薬を買いに走りました。娘のいないこの時に、折あしくも敵の大之進と大助兄弟が通り掛かります。果敢にも、お萬は名乗りをあげて切りかかりました。しかし、相手は武士二人、女の手では及びがたく、反対に切り伏せられてしまいました。
残された遺児たちは仮の墓をこの地に建て、墓には「妙誉定享信女、貞享三年一〇月二三日」と記しました。やがて血に染んだ草をわけて一本の松が生えてきました。この松を夫婦相愛の松として里人は「連理の松」と呼ぶようになったのです。

3 寺川の橋

馬籠から永昌寺へ行く途中に寺川という川が流れています。ごく小さな川で、ここに長さ六尺、幅三尺、厚さ九寸程の平らな石が二枚掛けて橋になっています。
昔この村に鬼助と彦七という大層強く、それでいて無邪気な男が二人おりました。常に力自慢をしあっていたが、ある日力競べをすることになって、さて何をしようかと考えた末、ふと思いついたのがこの川に石の橋をかけることでした。
二人はしょい縄をかついで石を探しに出掛け、運よくこの川から一〇丁ばかり離れた大戸という所で石を見つけました。さてこれを背負う時になって彦七は幾分大きめのものを鬼助に背負わせ、「おい鬼助!どんなにえらくても(苦しくても)、えらいと言った方が負けだよ」「よしきた」二人はうんうん呻りながら背負って来ました。玉のような汗を流して鬼助が「おい彦七、何だか向こうがかすんできた」。こんなに苦しくてもついに二人は“えらい”なんて弱音を吐かずに寺川までやってきました。
石の長さは六尺、幅は三尺、厚さは九寸ほどもある平らな石で、この二人のおかげでその後いつまでも橋は流れも壊れもせずに、馬や人が通ることができるようになりました。
(この石橋は先年の道路工事の際取り外され、コンクリートのものに架け替えられました。)

4 消えずの燈明

その昔、中山道を通ったある大名の姫君が陣場の上あたりで急死してしまいました。旅先のことでもあり、やむを得ずその辺りに埋葬して旅を続けましたが、そのあと誰も燈明をあげる者もないまま、いつの間にか忘れ去られてしまいました。地下に眠る姫君はそれをたいへん悲しみ、自分の墓のそばにある松の木に、自分で燈明をとぼし続けています。燈明は霧が原からは見えるといわれますが、不思議なことにそばに近づくと、どこにも見えないといいます。

5 大池の主

愛宕山から高土幾山の方へ少し行くと、左側の山中に池の跡があり、その昔は数十倍も大きく今でも雨が降った後は水を満々と湛え、気味の悪い程でありました。
その昔、村人が人寄りで膳や茶碗が足りないときは、その池の端に行って一心にお願いすると、翌日その場所に頼んだだけの分の食器が揃えておいてあったそうです。村人は用事を済ませて返すときには、元どおりにして池の端に持って行き、お礼を述べて帰ってきたそうです。ところがある日、お借りした品物の一つを傷めてしまいました。
「傷んだ品物をお返ししたら叱られる」。その人はそう思って一つだけ足りないままで返しました。ところが、池の主の大蛇は大層怒って、ある晩のこと大雨を降らせ、池の端を崩して流れる水と共に湯舟沢の方へ立ち去ったといいます。その後大池は小さくなり、蛇体の行った先の古池は、今でも水が絶えることが無いそうです。

6 大岩の松

峠のお薬師様から峰通りに三〇〇メートルばかり登って行くと、「大岩」というところがあります。畳一〇帖敷程もある大きな岩でそこにたいへん大きな松が生えていました。岩の裂け目に根を張って、しっかり伸びているあたり数百年も前からあったのだろうといわれていました。
いつのころか、一人の男がこの松を切って薪にしようとし、周りの人たちが止めるのも聞かず、斧で切りつけました。ところが、切り口から真っ赤な血が流れ出たので男はびっくりして逃げ帰りましたが、その後病気になって寝込んでしまいました。
それからというものは、他の木は切ってもこの木だけは誰も切ろうとはしませんでした。
(この不思議な木も昭和九年(一九二〇)九月の室戸台風のときに倒されてしまい大岩だけが残っています)

7 竜宮乙姫岩の伝説(一)

今でこそ旧山口村は木曽谷の入り口などと言われ、山の中の村ですが、遠い昔はこの辺りまで海辺でした。木曽川は丁度山口村の辺りで海にそそいでいました。
この辺り一帯は自然の景観に富み、川面には大小幾つかの奇岩が顔をだして並んでいました。中でも一際大きい岩を乙姫岩と呼び、その周囲にはあたかも乙姫岩に仕えるように殿岩・獅子岩・波切・亀岩・袖振岩・伊勢木岩・屏風岩などという岩が波間に浮かび、非常に美しい景色を作っていました。
またこの付近には、浦島・八重島・中島・下島・蓬島などという、いくつかの島の名前が地名になって残っているのも、当時海であったことを証拠だてるものであります。竜宮乙姫様に関する伝説は全国各地にあるけれども、その発祥の地は実はこの地であります。
むかしむかし、乙姫様はこの水底の竜宮に立派な城を構え、多くの家来にかしづかれながら栄華な毎日を送っておりました。
さてこの木曽川の遙か上流の上松という地に、寝覚めの床という美しいところがありました。ここに天下無双といわれる程の美男子がおりました。その男は名前を浦島太郎といって、あまりの美男子のため女難の祟りが多いところからとうとう都を避けて木曽の山奥に隠遁していたものでした。
浦島太郎は釣りが大好きで、一日中寝覚めの床の亀岩という岩の上に座って糸を垂れ、魚釣りを楽しんでいました。とある日、俄かに大雨が降りだし、やがて川は大洪水となって荒れ狂い寝覚めの床の岩々は濁流に呑まれ、亀岩の上で魚釣りをしていた浦島太郎は亀岩諸共一挙に押し流されてしまいました。ところが不思議なことに、亀岩は突然生きた亀に変わり、浦島太郎を乗せたまま川を下り、この竜宮にやって来ました。そして秘密の入り口である「竜門」という洞窟をくぐり抜けて竜宮城にやってきました。
乙姫様は死んだようになって流れ着いたこの男をたいそう不憫に思い、家来に命じて手当をさせたうえ、水通自在といわれる神力を使って太郎の命を蘇らせました。
乙姫様の手厚い看護によってすっかり元気になった太郎は、この竜宮に一小島を与えられ楽しい毎日を暮らすことになりました。そしていつか二人の間には熱い恋が芽生えてきました。しかしあまりにも身分が違い過ぎることから、二人はわかれなければなりませんでした。別れの日、姫は太郎に一つの玉手箱を授け、「これは不老の箱。私を思い出したらこの箱を眺めよ。しかし今度お会いするときまで、どんなことがあっても絶対に蓋を開けてはなりません」といって再会を誓いました。
姫は太郎を「見返りの里」まで送って別れを惜しんだといいますが、その場所は見帰里(みぎり)という所でした。いまその地は訛って村人たちは「握り」と読んでいるというそうです。
さて竜宮に別れを告げた浦島太郎は、再び以前のように釣りを楽しもうとしましたが、乙姫のことや楽しかった竜宮の生活が忘れられず、再会できる日を待ち続けました。しかしいつまで待っても姫からは何の連絡もありません。姫から授けられた玉手箱をとりだして眺めているうちに悲しさのあまり、箱を開けてしまいました。するとなんと不思議。箱の中から白い煙が立ちのぼり、それが太郎の顔にかかった瞬間、太郎は八〇を越す白髪の老人になってしまいました。
(今、乙姫岩には乙姫の神を祭り、縁結びの神として信仰されております。また乙姫の使った膳や椀が宝物として残っているといいます。また乙姫岩の岩間から湧き出す鉱泉は、姫が入浴に使った湯であり万病に効果があるといいます。)

8 竜宮乙姫岩の伝説(二)

むかしむかし、乙姫岩に乙姫様が住んでいました。 上松の寝覚の床に住んでいた三帰翁(若いときは浦島太郎とあだなした)は、釣りが大好きで明けても暮れても、亀岩より糸を垂らしておりました。
ある時のこと、奥山より鉄砲水が流れてきて、釣りをしていた太郎は岩もろとも押し流されてしまいました。
気絶して漂流するうちに乙姫岩に流れつきました。姫は使者に命令して太郎を救わせて竜宮に運び、手厚い介抱をしました。その結果太郎は元どおり元気になりました。
釣りの好きな太郎は、乙姫岩から魚を釣ると魚が外れて岩根山荘の大岩にドシンと当たり魚の跡がつきました (今でもその跡があるといいます)。
しばらく休んでいるうちに、太郎と乙姫様は熱烈な恋仲になってしまいました。寝覚めの床を忘れた太郎は、毎日のように御馳走をいただき楽しんでおりました。しかし、身分のちがう太郎は何時までもあまんじておるわけにはいかず、寝覚めの床へ帰る覚悟をしました。
別れを惜しみながら太郎は、下島、中島、八重島と渡り、浦島より帰りました。それを見送りに出られた乙姫様は、袖振岩まで三度も往復して別れを惜しみました(三度往復したのでこの辺りを三帰里とよぶようになりました)。
再会を誓いながら太郎は寝覚めの床で、また乙姫は竜宮で互いに待ち続けました。辛抱できなくなった太郎は、乙姫様からいただいた不老の玉手箱をついに開けてしまいました。すると不思議なことに、その玉手箱から白い煙がパッと出て、太郎はたちまち白髪の老翁になってしまい、その後再会することができませんでした。

9 首さらし岩

馬籠宿の石屋坂の中山道の路傍に「首さらし岩」という大きな岩がありました。
元治元年(一八六四)一一月、筑波山で兵を挙げた水戸の浪士武田耕雲斎を主領とする天狗党の一行八七五名は中山道を京都に向かいます。途中和田峠で松本・諏訪両藩と戦いこれを破ったあと、伊那路に入り清内路峠を越して一一月二六日馬籠と落合に泊まりました。馬籠宿の本陣の主人島崎重寛は平田国学の門人であることから、一行を手厚くもてなしたのです。一行は翌日京都を目指して旅立ちました。
この天狗党の隊士の中に一人軍規を乱し悪事を働いた者がいたので、隊士はその者を処刑し首を宿場はずれの街道ばたの岩のうえにさらしました。以後村の人たちはこの石のことを「首さらし岩」と呼ぶようになりました。
(註=この話は史実とは関係ありません。天狗党は飯田に泊まったとき、農家から蓑を強奪したとして四番報国隊に所属する隊員の高橋賢治なる者を処刑していますが、処刑後は手厚く葬っており、同志をさらし首にするなどはしていません。あくまでもこの首さらし岩の話は伝説に過ぎないものです。)

10 聖人岩(ひじりいわ)

梵天山の東方、小学校の西の方向あたりに、馬籠宿に向かって大きな岩があります。この岩の上にまるで彫ったような人の足跡と円い杖をついた跡があります。
昔、弘法大師がこの地に足をとどめられて梵天山に登り、この岩の上に立たれました。恵那山が目の前にくっきりと聳えているのをみて、恵那山に向かってさっと飛び立ったといいます。そしてそのあとには飛び立ったときの片方の足跡と杖の跡が岩に刻まれていたといいます。村人たちはそれからこの岩のことを聖人岩と呼ぶようになりました。

11 荒町の石責め

むかし、新茶屋近くの街道ばたに鍛冶屋があってそこに美しい娘がいて若者たちのあこがれの的になっていました。ある日のこと、若い僧がきてこの家に泊まったが娘の美しさに心をひかれ、幾日も滞在するようになりました。そしてやがて二人は深い恋仲になり村人の評判になりました。
村の若者たちは嫉妬と怒りのあまり、僧をだまして家から連れだし、かねて用意していた大きな穴に突き落とし、上からみんなで石を投げつけて殺してしまいました。
明治の中頃、この部落に悪い病気が流行して村人たちは苦しみました。占い師に占ってもらったところ昔殺した僧のたたりだといわれたので、墓を立てて供養をしたといいます。

12 梵天山の蛇塚

昔、荒町の農家の馬小屋に忍び込んでは馬に悪いことをするものがいたが、犯人がわからないままみんな気味悪く思っていました。そのうちにやがてそうしたこともなくなり人々は次第に忘れていましたが、あるとき一軒の家で馬小屋の改修をしようとしたとき、床の中に大蛇の骨が横たわっているのを見付けました。
馬小屋荒らしの犯人はこの大蛇だと知った村人たちは、この骨を梵天山に持って行って丁寧に祀り、あとの祟りのないようにしました。

13 雨乞い石

木曽川は川原田の付近に一匹のカッパが住んでいました。川へ魚採りに来た人や水浴びの子供たちを川に引きずり込んではヘノコを抜いてしまうのでみんな困ってしまいました。そこで御嶽行者に頼んでカッパ伏せの祈禱をして貰いました。河原で護摩を焚いて行者の祈禱が二日二晩つづきました。
「もうこれで大丈夫だ。カッパの頭は石になった。もう悪さはせんで安心していい。雨がほしくなったらカッパの頭の皿に溜まっている水をかい出すがいい。カッパは頭の皿の水が干ると苦しいので雨を呼ぶ」。集まった村人に行者はこう告げました。なるほど河原には今までみたこともない大きな石が現れ、窪みには水が溜まっていました。そののち、村人たちはひでりで雨が欲しくなると、この石の水を掻き出して雨乞いをするようになりました。そしてこの石のことを「雨乞い石」と呼ぶようになりました。

14 黄金の瀬

坂下町の木曾川に川上川が流れこんでいる合流点一帯を黄金の瀬といっています。この黄金の瀬についてはいろいろな話がありますが、山口村にかかわる話として次のようなものがあります。
《その一》昔、大商人が幾人もの家来を連れて、たくさんの黄金を運ぶために東山道の神坂から山口を通って木曾川を渡り、木曾西古道を抜けて京都へ上ろうとしました。木曾川にさしかかり、筏を組んで黄金を運ぶ途中、波にのまれてひっくりかえり、川底に沈んだ黄金が輝いて見えるので、黄金の瀬と言うようになりました。
《その二》昔、山口村の光西寺で大火がありました。そのときにたくさんあったお金(大判・小判)を川へ投げ入れたので、川底に沈んだお金が光ってみえたことから、ここを黄金の瀬といいます。
江戸時代には木曾川では材木運搬のため木材流しが行われましたが、尾州藩の木材流し地図に、黄金の瀬は盗難の多い場所に指定されていました。

15 濃が池

濃が池のあった所は今は木曾川の一角になっていますが、昔は川より随分離れており、村人たちは別名を「青木の瀬」ともいっておりました。
「濃」とは、架空の動物で馬鹿でっかい怪物で、濃が池の伝え話は、子供向けの“美濃と飛騨の昔話”にこんなふうに書かれています。
『毎日のように大雨が降り続いた。そのとき、村へ「濃」が出現して水を飲み、娘を授けないと退散せずに暴れまわった。
村人は毎年のように娘を「濃」に授け続けたので、とうとう村に娘が一人になってしまった。
その最後の一人の娘を授けると「濃」は娘が気に入り暴れないようになった。』また別の話として語り継がれているのにつぎのようなものがあります。
どういうことか数年日照りが続き、特にその年は大旱魃に見舞われ、坂下や山口では日照りがきびしく、昔から湧き出ていた清水もちょろちょろになってしまいました。そこで村人は相談の結果、神坂の湯舟沢へ雨乞いにゆくことになりました。また、雨乞い岩では坂下の人も加わって大勢で雨乞いをしました。
どれほどの時間が経ったでしょうか。俄かに黒雲が出てきたかと思うと、どえらい大きな雷が何回も鳴り響きました。激しい稲光はまるでオーロラをまのあたりにみるような情景でした。しばらくすると、黒雲をかきわけて「濃」が天から降りてきました。なにしろ大怪物のことです。左足を山口に右足を坂下へドスーンと下ろし、口を黍生の舟渡し場付近に突っ込んで細くなった木曾川の水をたちまちのうちに飲み干してしまいました。
驚いたのは人間ばかりでなく、川の魚も干上がった川のなかでアップアップしだしてしまいました。「濃」の襲来に村人たちは肝をつぶし、ガタガタ震える者、気絶する者、神に祈る者、ただただ右往左往するばかりでした。それを見た「濃」は『いいきびゅう(黍生)や、いいきびゅうや』と言い残して天に昇って行きました。
それから二、三日後下界の農民の苦しみが「濃」に解ったのか、神様と「濃」の力で、この地方に恵みの雨が降りだしました。待ちに待った雨で村人は一斉に田植えを始めました。 「濃」の足跡には雨水が溜まり、いつのころからか「濃が池」と呼ぶようになりました。